『自傷からの回復 隠された傷と向き合うとき』

自傷からの回復――隠された傷と向き合うとき

自傷からの回復――隠された傷と向き合うとき

自傷者であり、臨床心理学者である著者が、アディクションという視点から自傷について書いた本。読んでて、著者の言葉の端々に感じる元自傷者としての著者と、臨床心理学者としての著者の存在を感じた。あとがきでは、訳者である小国綾子もその「揺れ動く」のを感じたと書いている。

この本は素晴らしいと思う。誰にでも薦めることのできる本であるように思う。特に今現在自傷行為に悩んでいる人と、元自傷者に薦めたい。勿論、教育を志す人や心理、福祉系の学生なんかも読むべきだろうと思う。

どの章も素晴らしく、著者の生きた言葉が感じられる。ただ、第7章のスピリチュアルの部分は僕にはよく分からない。小国はあとがきで次のように言っている。

ただ、正直に告白すると、私は、この章に登場する「スピリチュアル」や「宗教」といった言葉が苦手です。

うん。僕も苦手だ。
著者は第7章「あなた自身のスピリチュアルな空虚感と向き合うとき」のはじめにこう述べている。

宗教的であることと、スピリチュアルであることとのあいだには、大きな違いがある。

なので、「ほうほう、宗教的とは違うのか。じゃあ僕も受け容れられるかな。苦手だと思わないかな?」と思っていた。
ちなみに僕はこの章の最初の方を読んでいて森岡正博の生命学を思い出していた。
森岡は現代文明学研究:第8号(2007):447—486「生命学とは何か」中で次のように言っている。

◆生命学の基本的発想
生命学とは、自分をけっして棚上げにすることなく、生命について深く考え表現しながら、生 きていくことである。p.448
◆各自の生命学
各自の生命学とは、生命学の基本的発想と出会うことをきっかけとして、自分にとっての生命 学とは何かを発見し、掘り下げ、展開していく終わりのないプロセスのことである。p.449

これが著者の言うスピリチュアリティ(「思索と探究、そして時間と労力を要するプロセス」)と似ているなあと思い返していた。

しかし、読んで行くにつれて、神とか信じるとかいう言葉が出始めて
宗教色の濃い感じになっていって、違和感を持った。

ただ小国は、

「スピリチュアルではない私を導いてくれたのは、たくさんの人との出会い」

と言っているし、著者自身も

「スピリチュアルな体験に至るためには、さまざまな異なる道が存在するし、スピリチュアリティについての考え方もさまざまである。同じ境地に達するにも、いくつもの道がある。スピリチュアルな道のりを進むのに、たった1つの「正解」などないのだ」

と言っている。
何がスピリチュアルなのかは、人それぞれなのかもしれない。宗教的な違い、生育歴の違いなどから様々なスピリチュアルがあるのだろうと思う。神なのか、大自然なのか…などなど。


この本を読んで、自傷アディクションとしてここ最近捉えるようになりまた考え方が変わってきているような気がしています。松本俊彦の著書などを読んでいくかな、という感じなうです。

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